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2007年4月29日 (日)

小さな貝殻 -母・森瑶子と私 -マリア ブラッキン

森瑶子と伊藤雅代

 作家と作品は別だと、理性では思っていますが、どうしたって好きな作家さんの私生活は気になってしまいます。

 私生活、というより、何を考え、何を好み、どういう行動をしていたかがすごく知りたい。週刊誌的興味なのはわかっていますが。

 

 この本は、森瑶子さんの次女であるマリアさんの、鎮魂の思いをこめた小説です。

 副題には「母・森瑶子と私」とありますが、どちらかというと純粋に「母と私と私の家族」の話であり、その母「伊藤雅代(マサヨ ブラッキン」が森瑶子であっただけのこと。

 単に小説家森瑶子の思い出話ではなく、お父さんの事、三姉妹それぞれの話、そして自分自身の現在の悩み、生活についても描かれているところが、小説としてはもう一つなのかもしれないけれど、逆にマリアさんの気持ちに触れているような気がして、好感を持ちました。

 女性としての自分、森瑶子としての自分を大切にしたい伊藤さんと、家族との生活を愛して大事にしている森瑶子さんは、まるでマリリン・モンローとノーマ・ジーンのよう。

 そして家族全員が、彼女のそのパワーと環境に負けまいとあえいでいるような、そんな印象をうけました。せつなくなる。

 

 森瑶子さんの私生活に興味を持って読んだ本ですが、読んだあとは、マリアさんのその後が気になりました。

 元気で、がんばれ。一人の女性としてただそう思います。

 

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2007年4月28日 (土)

無邪気なみどり

 桜が散って新緑の季節になると、電車のなかで、ますます本が読めなくなる。
 特に雲ひとつない晴れた朝。
 窓からみえる風景は、決して緑がゆたかなわけではないのに、いつも私をどきどきさせる。
 大好きな人の顔をみて、嬉しくて嬉しくて照れちゃって、顔をにやけさせずにいられない、そんな気分になる。
 
 狭い庭にひしめきあっている植木も、ちいさな畑の緑も、線路沿いの花も。
 ありとあらゆる樹木が、もくもくと葉をひろげてうれしそうだ。あんまり嬉しくて、自分で枝をゆらしてるんじゃないかと思うほど。
 まるで赤ん坊の笑っている顔のように、なぜだか光って見える。
 どうしてこんなに東京の緑は無邪気なのだろう。

 寒い地域の植物は、新緑の季節でさえ控えめだ。こんなに無防備に葉をひろげない。もっとおだやかだ。光をあびてただ微笑むような、じんわりと春をかみしめるような、そんな喜びだ。

 植物でさえ、こんなに違う。
 そしてその無邪気さに、私はいつもやられてしまう。
 人にも、植物にも。

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2007年4月27日 (金)

存在の耐えられない軽さ

存在の耐えられない軽さ スペシャル・エディション DVD 存在の耐えられない軽さ スペシャル・エディション

販売元:ワーナー・ホーム・ビデオ
発売日:2006/05/12
Amazon.co.jpで詳細を確認する

公開当時使われていた写真はもっとエロティック

 高校生の頃の話です。

 姉のところに届いたはがき。20代の女性を対象に送られたこの映画の試写会招待状を姉からもらったら、母に猛反対されました。

 「高校生が観る映画じゃない。早すぎる。」

 おそらく招待状に印刷されていたスチール写真のせいです。

 ベッドに腰掛ける男に、下着姿でひざまずく女。

 知らなければ確かに誤解されるかもしれません。実際、SEXシーンは多くあります。

 けれど、母に猛反対される内容では断じて、ない。それを知っていたから必死に説明したけれど、わかってもらえなくて。

 結局、当日までねばったけど駄目でした。学校帰りにそれでもと、電話で母に交渉したあげく怒られて、ふてくされて家に帰りました。

 あんまり悔しくて、招待状をやぶってすてたことを未だに覚えています。

  

 映画の舞台は、共産圏としてヨーロッパがくずれはじめた頃のチェコスロバキアです。

 「プラハの春」とよばれる旧ソビエトのチェコ侵攻をドキュメンタリー風に、主人公と、彼に関係する二人の女の話を小説風に描いています。

 主人公にとって女の存在は軽い。

 でも、国家にとって主人公の存在は軽い。

 重い人生は辛いけれども、少なくとも手ごたえはある。けれど、軽い人生には手ごたえがなくて実感がなくて、それに人は耐えられない。

 その軽さを意識してしまったら、なおさらだ。

 3時間近い映画ですが、そして気合を入れてみないと意味がわかりにくいかもしれませんが、それでもおすすめです。観終わった直後は恋愛ごとと、何日か後には生き方を、深く考えてしまいました。

  

 「人生は私にはとても重いのに、あなたにはごく軽いのね。私、その軽さに耐えられないの」

 映画のキャッチコピーは、年々、実感としてせまってきます。

 今でも、あの時みておけば、と思ってしまうけれど、あの頃の私でこの映画の主題をよみとれたかどうかはちょっと自信がありません。

 そういう意味では、たしかに高校生が観るには早い映画だったのかもしれないな、と思います。

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2007年4月21日 (土)

がんももは完結したの(BlogPet)

がんももは完結したの?


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「がんもも」が書きました。

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2007年4月20日 (金)

琥珀枕 -森福 都

琥珀枕 Book 琥珀枕

著者:森福 都
販売元:光文社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

由緒正しい、妖怪譚

 むかしむかしあるところに...とはじまるような、不思議な話がすきなのは、小さい頃、祖父に毎日、寝物語として聞いていたせいだと思います。

 でも正直に言うと、その話の内容をさっぱり覚えてはいません。何一つ。けれど、まるでみてきたかのように語る祖父のイメージだけが残っていて。

 だから、おじいさんが子供に語るというシチュエーションは、それだけで私の郷愁を誘います。

 この「琥珀枕」の先生のように、ほんとうに、「みえているもの」を語っているならなおのこと。

 

 「琥珀枕」は、中国が舞台の妖怪話。村の中で起こるありとあらゆる出来事を、すっぽんが変化した先生とその弟子が、文字どおり、「高みの見物」をしているところからはじまります。

 先生は何が起こっても手出しはしない。無駄に解決もしない。ただ、弟子である男の子に何かが起こることだけをつげるだけ。弟子はそれを聞いて、自分なりに考える。「高みの見物」は弟子である男の子への、授業の一環だから。

 つまり二人はこの本の狂言回しの役どころなのだけれど、その立ち位置がなんともいえず昔話めいていて、とてもいい。

 すっぽんであることを知られながらも、先生として雇われちゃう。妖怪が妖怪として存在を認められている、というところも、とてもいい。

 弟子である男の子は、金田一シリーズの小林少年のような優等生。そのお父さんとお母さんもまた、素敵にいい人。それが全く嫌味でないところも、またとてもいい。

 一話完結のそれぞれにでてくる妖怪は人間味にあふれ、でてくる人間はなぜか少し妖怪じみてる。そのバランス加減も、とてもいい。

 つまりこの本、私のとてもお気に入りになりました。しばらくは、森福 都さんの本を買いあさることになるでしょう。

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2007年4月16日 (月)

これは王国のかぎ -荻原 規子

これは王国のかぎ Book これは王国のかぎ

著者:荻原 規子
販売元:中央公論新社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

タイトルは、マザーグースの一文です

 アラビアン・ナイト、「千夜一夜物語」をはじめて読んだのは子供の頃。子供向けの物語として、何冊かおいてありました。

 見知らぬ世界のわくわくするような魔法の話は、本によって微妙に納められているものが違っていて、みかけるたびに、まだ読んだことのない話が載っていないか期待をしては読みました。でも大抵は同じ話ばかりが載っていて。

 千夜一夜というならば、もっともっと読んでいない話があるはずだ。全部載っている本がどうしてないんだ、と、不満でした。

 まさか閨で語られる話をまとめたものとは思いもしませんでした。当たり前ですが。

 

 荻原 規子さんの本は「空色勾玉」を読んだのが最初です。その日本的な、しかも甘くないストーリーに、少々こわさまで感じました。

 「これは王国のかぎ」にはアリババもシンドバッドもでてきやしません。そして日本の中学生「だった」女の子が主人公です。

 主人公は失恋のショックから異世界へ、しかも魔法の壺からよびだされるジンになってしまいます。

 あらゆる冒険をしながらジンとして成長し、元の世界のことも思い出しながら心の成長もする。

 この話の内容を、そんな一文で片付けるにはもったいなさすぎます。

 

 だって、砂漠があって魔法があって色気があって、最後は素敵な大団円で終わる。

 王様が、満足して眠りにつくのにふさわしい、間違いなく、千夜一夜語られる夜伽話に加えていいお話だと思います。 

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2007年4月14日 (土)

悲しくて(BlogPet)

きょう岩波書店で、満開を庇護したいです。
でも岩波書店とここに岩波書店が確認しないです。


はるかな国の兄弟著者:アストリッド・リンドグレーン販売元:岩波書店A m a z o n.c o.j pで詳細を確認する

そこは桜が咲き乱れるその国での、勇敢で、悲しくて、でもそれを悲しいと思ってはいけない物語。


 そう思いつつも。


 実際、発表当時は賛否両論だったようです。


 それで気になってしまうので書けません。



*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「がんもも」が書きました。

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2007年4月11日 (水)

月天心 -一青 窈

月天心 Music 月天心

アーティスト:一青窈
販売元:コロムビアミュージックエンタテインメント
発売日:2002/12/18
Amazon.co.jpで詳細を確認する

月にも二つ顔がある

 母は私が二十代最初に病気で他界しました。

 子供との距離をある程度とっているのは性格かと思っていましたが、今思うとそうではないだろう、と感じます。農家の仕事に加え内職までしていた母に、必要以上に子供に手をかける時間などありませんでした。

 母が生きていた頃、社会人になったばかりの私にはまだ、母は母で女の人ではなく、そして何歳になっても旅行やら趣味等への興味というものはつきないものだ、なんていうことを実感できる年ではありませんでした。

 今だったら、いくらでも好きなところにいかせてあげるのに。くだらない事に無理やり誘い出して一緒に遊びにも行ったりできるのに。

 孝行したいときに親はなし、とはよくいったものです。墓に布団は確かにかけられません。だからせいぜい仏壇に、母の好きだったチョコレートを供えるくらいしかできません。

 

 父は健在です。七十すぎていますが、爺かくしゃくどころかまだまだ脂ぎっています。 

 母に存分に親孝行できなかった経験を思うと、父にも今のうちに孝行しようと思うのですが、これがなかなか難しい。

 照れくささと、まだ少しある反発と。

 何より父自身、子供である私よりも、自分の仲良い友達と過ごす時間の方を大事にしている節があるので、あえて一緒にどこかへでかける必要はないだろう、なんて感じてしまいます。

  

 一青窈さんのアルバム、「月天心」は「もらい泣き」目当てで購入しましたが、今は全曲の中では「アリガ十々」という曲が一番好きです。

 これは両親をなくしている窈さんが、両親、とりわけお父さんへむける誠実な歌。

 我が家ではお正月に親族で、何故かカラオケに行く習慣があるので、いつか一度だけ。父にこの歌を歌って上げましょう、とこっそり決めています。

 親孝行になるかはわかりませんが。

 ものすごくものすごく照れくさいでしょうが。

 アリガ十々  歌詞:一青窈

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2007年4月10日 (火)

マイ・ビッグ・ファット・ウェディング

マイ・ビッグ・ファット・ウェディング DVD マイ・ビッグ・ファット・ウェディング

販売元:ワーナー・ホーム・ビデオ
発売日:2005/11/18
Amazon.co.jpで詳細を確認する

ビッグ・ファットとは「大げさ」という意味です

 私の実家は田舎の古い家なので、しきたりが多いです。

 当然、結婚式ともなると、内輪であっさりというわけにいきません。

 披露宴によばれる親族は、両親の兄弟は当たり前。祖父母の兄弟や、はては近所の、一体何世代前の親戚かわからない親戚まで出席したりします。

 私のように、実家から離れたところに住んでいても例外とはみとめられません。

 姉は京都に住んでいて職場も京都であったにも関わらず、そして姉がさんざん説得したにも関わらず、父は譲ってくれなくて。結局、姉は京都と実家で合計二回、披露宴をやるはめになりました。

 

 実は、巨大なヒロインがでてくる「愛しのローズマリー」と間違えて借りました。 「ビッグ・ファット」なんてタイトルがついているのだもの。

 でも間違ってみてものの、これが大ヒットでした。

 正式なタイトルは「マイ・ビッグ・ファット・グリーク・ウェディング」。「ギリシャ人の大げさな結婚式」というような意味でしょうか。

 アメリカに住みながらもギリシャ人であることに誇りを持つ父。テンションの高い、結束の固い親族一同。

 主人公は決して親族達が嫌いなわけではありません。愛しているからこそ、恋人にもそれを受け入れてもらいたい。でも、受け入れてもらえるとはとても思えない。

 そんな主人公の気持ちが感じられて、他人事とは思えない。

 自分の結婚式は未定ですが、考えるだけで恐ろしい。父の気持ちもわかるので、姉ほど拒むつもりはありません。それで父が満足するならば、その時がきたら、したいことをさせてあげましょうかとも思います。

 が、そうするとどんどん過剰になっていきそうでそれがまた怖い。

 結婚式、そして披露宴。

 結婚式は「生涯の伴侶となることを誓う儀式」で、披露宴は「新郎新婦がそれぞれ作った人間関係に、お互いを紹介する儀式」。と思いたいところですが。

 まだまだ田舎では、少なくともうちの実家のまわりでは「一族に新しい人を迎える儀式」であり、「一族に新たに一員として加わったお祝いの宴」の意味合いが強いです。

 何が困るって実のところ、それは決して居心地の悪いものではなかったりするのです。 

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2007年4月 8日 (日)

本心

 久しぶりに会ったかつての仲間達や、あれ以来会っていなかった大事な友人と、昨日も会ったかのように会話する。

 軽口をたたきながら、会話を交わしながら、この懐かしい人をやはり私は大事に思う。

 普通に大好きだと思う。ただし穏やかに。

 だからもう、私は元気だと伝えたかった。構える必要もないよ、と安心させたかった。

 近況を伝えたらきっと、もう私に怯える必要はないんだと安心して、ちゃかしてくるだろう。そしたらまっすぐ目をみて、わらってのろけてありがとうを言おう。そしたらすっかり安心するだろう。そう思ってた。

 

 でも穏やかに、そうか、と言われただけだった。

 その声の穏やかさに、私は目をあわすどころか相手の顔さえみれなかった。

 何故か、ひどく何かを裏切ったような気がした。後ろめたさを感じた。 

 

 彼への気持ちが残っているからではない。

 この大事な友人に、本心をいえなかったからだ。目をあわせたら、ばれてしまいそうな気がしたからだ。

 

 だって本当は大丈夫じゃないから。

 今の相手との関係が不安だから。幸せだと言い切るほど、相手を信じていないから。

 

 懐かしい人にあって、今の不安を知る。

 やはりこの人は大事な友人だ。私にとって、まだこんなに強力だ。

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2007年4月 7日 (土)

インディ(BlogPet)

昨日、ももんがが
慣性の医師があっても空気が邪魔しているのに、何故、インディ・ジョーンズは電車の屋根から屋根へ飛び移れるのか。
っていってたの。

*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「がんもも」が書きました。

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2007年4月 5日 (木)

医師がすすめるウオーキング -泉 嗣彦

医師がすすめるウオーキング Book 医師がすすめるウオーキング

著者:泉 嗣彦
販売元:集英社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

実は読んではいないです...

 ここ一年ほどで、なんとなく体型がくずれてきた気がしてました。

 体重はかわらないのに、去年似合っていた服が似合わない。なんとなく腰のまわりがぼてっとしてる。

 なんでだろうなあ、と思いながらいつものごとく夜の散歩をしてました。

 そういえば靴も外側ばかり減っちゃうなあ、なんて思ったとき、ふと気づきました。

 私はO脚です。

 ここのところそれをかくすように歩いていたのだけど、それは膝を内側にむけるようにではなく、ふくらはぎを外に出すように力を入れてました。

 ためしに内側の筋肉を意識しながら歩いてみたら、お尻のお肉が邪魔に感じました。邪魔なお肉があるからその歩き方になったのか、その歩き方だから今まで邪魔じゃなかったのか、それはわからないですが。

 そのまま歩き続けたら、おなかがぐるぐると動きました。腸が急に活発になったみたいです。

 これはいいかも、と、歩くとき、いえ、立っているときでも意識して足の内側に力を入れるようにしてみました。

 桜の季節なのをいいことに、その歩き方であちこち散歩してまわって2週間。

 やっぱり体重はかわりません。でも足首の筋は浮いて、腰のまわりのお肉は外側ではなく前に移動しました。

 歩く時間も速さも変えていないというのに。

 体って不思議だ。

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2007年4月 3日 (火)

はるかな国の兄弟 -アストリッド・リンドグレーン

はるかな国の兄弟 Book はるかな国の兄弟

著者:アストリッド・リンドグレーン
販売元:岩波書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

そこは桜が満開の国

 タイトルは失念しましたが、とある読みきりの漫画でこの物語のことを知りました。

 その漫画では、桜の花の精に会う夢をみる病弱の女の子と、その女の子のために桜の写真を集めているお兄さんがでてきます。

 主人公はお兄さんの友達で、その妹さんのことを知ったときに彼を励ますように穏やかに、この物語の話をするのです。

 ネタばれになってしまうので書けませんが、その主人公と同じく、私もこの「はるかな国の兄弟」の世界、シチュエーションには意表をつかれました。

 それで気になって、探して読みました。

 ありそうでなかった物語で、そしてラストはシチュエーション以上に衝撃的でした。

 実際、発表当時は賛否両論だったようです。

 

 リンドグレーンは「ながくつしたのピッピ」が有名。でもこの「はるかな国の兄弟」もピッピと同じくらい私は好きです。

 勇気のあるお兄さんと、そのお兄さんの庇護の下で、勇気を出そうとがんばる男の子。

 常に満開の桜が咲き乱れるその国での、勇敢で、悲しくて、でもそれを悲しいと思ってはいけない物語。

 二人は次の国できっと幸せに仲良くくらしてる。そう思う。だから、悲しむ必要はない。

 そう思いつつも。

 やっぱり悲しいのは、この兄弟がもうこの世界にはいないから。もっと遠く、はるかな国にいってしまったからなのかもしれません。

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2007年4月 1日 (日)

上野の夜桜

 この時期、何度も、そしてたくさんの夜桜をみる。

 大抵は一人で。

 桜をみるのは何故だか一人が多くて。夜中が多くて。

 だからだろうか。夜桜にはいつも少しさみしさが入る。

  

 でも、上野の夜桜だけはさみしくない。だから好きだ。今年も美術館の帰りに満開の桜に会えた。

 まず桜の下を歩く。

 ぼんぼりの、やわらかい光が照らす道行く人の、幸せそうな笑顔がみえる。

 道の端には陽気に騒ぐ人達がいるけれど、あでやかな桜の枝が騒ぎすらも飲み込んで、彼らはいとも簡単に背景とBGMになる。それは陽気な気分にさせる映画のようだ。

 でも、お寺に続く階段に座ると、とたんに印象がかわる。

 ぼんぼりの高さより少しだけ上なので、桜の枝は闇に浮かんで白さをます。
 その、静かな桜と、その隙間からみえる楽しそうな人の群れが、まるで幕のむこうから観客をみているような気分にさせる。今度は穏やかな幸せを感じてしまう。
 天国にいて、下界の様子を伺う神様は、こんな気持ちなのだろうか、なんてことを思ってしまう。

 桜の森の満開の下だけど狂気は感じない。死体だって埋まっていない。 

 上野の満開の桜の下には、平和と幸せが埋まってる。

 缶ビール一本分の酔いと、平穏な気持ちをお土産にして家に帰った。

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