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2011年9月 7日 (水)

水曜の朝、午前三時 -蓮見 圭一

水曜の朝、午前三時 (新潮文庫)
タイトルでサイモンとガーファンクルを思い出す人たちの物語

 大阪万博は、私の生まれる前の話です。「20世紀少年」でとりあげられてもありますが、いまいち、その熱狂はわかりません。
 
 わからないのに。この小説の大阪万博の記述を読んだ時、気持ちの中でかすめる記憶がありました。
 
 それは長野万博。実家の近所で開かれた事もあり、記憶に新しい。その人ごみと非現実さが、小説の中の風景とぼんやりとかさなりました。
 
 実際はその、何百倍の規模だったでしょうが。
 
 語り手である彼女が京都の町並みを歩く。その当時とは全く違うだろうに、自分の中の大阪の記憶とだぶる。夜の、京都ならではのいかがわしい闇が、やっぱりぼんやり浮かびます。

 テープに残された主人公の義母の告白が大半のストーリー。その生き方は身勝手で、奔放で、全く共感できません。
 
 共感できないのに、でも彼女の記憶の描写には共感してしまう。
 
 彼女が語る思い出は、はなはだ個人的なものなのに、なぜか普遍的な記憶として、自分の中の記憶を呼び起こす。まるで「となりのトトロ」のようだ。

 
 泣いたりもしなかったし、ストーリーに感動もしなかった。彼女の子供が、夫の子供ではないかも、と匂わせるあたりは、個人的に嫌いな展開ですらあるのに。
 
 なのに読み終わってから1週間、ちらほらと彼女の語った万博の記憶、恋の話が蘇える。
 
 食べ終えて、お会計をすませて店をでて、角を曲がった頃に、「おいしかった」と感じる。そういうお店を本当の名店と言うそうだ。
 ならばこの本は、名作と言ってもいいのだろう。

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